-大西先生の幼少期はどのような少年だったのでしょうか。
私が生まれ育ったのは下町エリアで、長屋と町工場が密集しているようなほこりっぽいところでした。
私が生まれ育ったのは兵庫県神戸市の長田区というところです。
家族構成は父と母、母方の祖父祖母、私の上に姉と兄がいる7人家族でした。家は狭く窓のない木造の家に住んでいました。父は大工の棟梁で木造住宅を建て、母は父が起こしたばかりの工務店で事務や経理を担っていました。
母方の祖父母は、私たちが住んでいる家の玄関先で駄菓子と雑貨を売る小商いをしていました。
父は職人気質で、毎日朝早く出ていくと夕方ほこりまみれになって帰ってきました。休みも月に1度あるかないかというほどでした。『じゃりン子チエ』という漫画をイメージしていただきたいのですが、世の中全体も今ほど豊かではありませんでした。
家に本というものがほとんどなく、みかん箱に1個収まるほどの量で、自分の本というものはなく、兄や姉が買ってもらったものが少しある程度でした。
子どものころはあまりスポーツをしませんでした。極度の怖がりだったんです。
今はサッカーが人気ですが、当時は野球しかありませんでした。ジャイアンツに長嶋茂雄と王貞治選手がいた時代で、みんな野球をしていて、私もねだってバットやグローブを買ってもらったのですが、運動神経がまったくありませんでした。
「ボールが飛んで来たらどうしよう」「フライが来たらどうしよう」
打席に立つのはまだましで、外野を守っている時が一番の恐怖でした。体を動かしてみんなで泥んこになるのは好きだったんですが、どちらかといえば家で遊んでいるほうが好きな子どもでした。
工作をするのが好きで、おもちゃをあまり買ってもらえないため、箱を組み合わせたり輪ゴムを使ったりして自作していました。
父も大工の職人で、母方の祖父も手先の器用な人だったため、私も手を使ってなにかをつくるということがすごく好きでした。
一番最初の夢は宇宙飛行士でした。
私が小学校1年生のとき、アメリカのアポロ宇宙船で人類が初めて月に降り立ちました。私もテレビにかじりついて中継を見ていました。子どもたちはみんな宇宙飛行士になるのが夢でした。

次になりたいと考えたのが考古学者です。
とにかく古いものが好きな子どもで、新しい物よりも古く歴史を感じられるものの方により惹かれました。小学校に入るときにも新しいランドセルを買ってもらうことを拒み、兄のお下がりの本革のがっちりとしたボロボロのランドセルを密かにかっこいいと思って使っていました。
考古学の分野ではさまざまな発見が続いており、最古の人類の化石がアフリカから続々と発掘されていました。高松塚古墳の壁画発見のニュースは考古学ブームを巻き起こしました。私も少しずつ地元の遺跡や博物館をめぐるようになり、本を読むようになってからは日本の考古学に興味が移っていきました。
そういう考古学少年のような時期があったのです。
大学でも考古学を専攻し、考古学者を目指していました。しかし考えが変わりました。
考えが変わった理由は二つあり、まずひとつは考古学の発掘作業というものが土木工事のような肉体労働であることです。
入学式のあと、いきなり発掘現場に連れて行かれ、シャベルと猫車(手押し車)で掘ったあとの埋め戻しを手伝わされて、えらいところに来たと思いました。
もう一つの方がより重要で、考古学はあくまでも物を扱う歴史学であり、文字や文献資料を対象としません。
私にとって問題点は、個人に迫ることができないことです。石器や土器など遺物が出土したとしても、それらを作った個人がどういう人だったかについて迫ることはできません。
なぜなら、考古学は物としての歴史資料を集め、それらの共通点や相違点を割り出し、ある時代のある地域にこういう集団がおり、どういう生活文化、社会構造が展開していたかを調べる学問であるためです。
土器の破片を見て、それがいつどこで使われたものか、例えば弥生時代であれば、近畿地方の、この時期の、この地域で、1世代20年ほどのスパンまで時期と地域を特定できるほど絞り込むことができます。
ただ、絞り込むのはあくまでも集団であり、共同体です。
太安万侶の墓のように墓碑銘が出土し、墓に埋葬された個人が特定できることもごく稀にあります。
その時でも、文字の資料というのは考古学の範囲ではなく、文献史学の対象であって、考古学がアプローチするのは、その墓碑銘がどういった素材や様式で作られているかという、物としての側面になります。
発掘作業をしているとき、出土した土器のかけらを見てそれを作り使っていた人間のことを想像します。ですが、それを追求する方法も目的自体も、考古学からはそれてしまいます。考古学は人類全体や共同体の歴史を探究する学問だからです。
どれほど細かく見たところで個人にはたどり着けない。それが在学中に考えが変わった大きな理由です。
次のステップが文学でした。
本を読むことはもともと好きだったのですが、家に本があまりないので同じ本を何度も繰り返し読んでいました。
そのころ読んでいたのは、『十五少年漂流記』や『人体の神秘』といった子ども向けの世界の名作や科学の本などで、それらは兄や姉の蔵書なので小学校高学年から中学生向けの本が多かったです。
また、学校の図書館で本を借りるようにもなりました。
正月には百貨店で古本市が開かれていましたし、全国の駅弁大会というものも開かれていました。そこに家族で行ってお年玉で好きな本を買い、駅弁も買って帰るというのが恒例の楽しみでした。
小学校3年生のときに森鴎外の古本と出会い、そのあたりから日本の近代文学を読むようになりました。さらに6年生のときに夏目漱石の『こころ』を読み、言葉にならないような衝撃を受け、その後立て続けに太宰治の『斜陽』を読みました。
それが文学体験としてとても大きく、それまで考古学が好きだったところに中学時代から日本文学というものが加わりました。漱石と太宰と芥川龍之介は、中学時代の私のアイドルです。
中学時代には、もう一つ新たな楽しみが増えました。音楽です。
友だちがバイオリンを習うのに誘われ、一緒にレッスンに通いました。学校のクラス活動も吹奏楽部に入り、そこから音楽を聴くだけでなく演奏するということを始めました。
考古学、文学、音楽という3本の柱が小学生から中学生にかけて少しずつ確立されていき、私自身をつくりあげ、支え、導く存在となりました。
それは現在、校正の仕事をする際にもとても大きな影響を与えてくれています。